2010/08/08

夜と霧 新版 / ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子



夜と霧 新版」を読みました。

「夜と霧」は、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所に閉じ込められた著者が、心理学者としての視点でつづった収容所体験談です。「夜と霧」というのは日本語版のみのタイトルで、もともとは「心理学者、強制収容所を体験する」というタイトルのようです。


著者がどういう人で、どういう経緯で収容所に入ったかについては、旧版訳者・霜山氏の解説に詳しく書かれています。

著者ヴィクトール・E・フランクルはウィーンに生まれ、フロイト、アドラーに師事して精神医学を学び、ウィーン大学医学部神経科教授であり、また同時にウィーン市立病院神経科部長を兼ね、(以下略)。

彼はユダヤ人であったから。ただそれだけの理由で、彼の一家はほかのユダヤ人と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構を持つアウシュビッツ等に送られた。そしてここで彼の両親、妻、子供たちは、或いはガスで殺され、或いは餓死した。彼だけが、この記録の示すような凄惨な生活を経て、高齢まで生きのびることができたのである。


モノ同然に扱われる「収容所」の中で自身酷い仕打ちをされ、家族も友人も失うという壮絶な体験――それを乗り越えて、振り返り、ひとつの本に仕上げる。その裏にある使命感というか意思の力というか、、、その凄まじい力は僕の想像を超えています。。

現代の日本に生きる僕が、著者が体験したような継続的な極限状態に陥ることはあまり考えられません。ですので、「戦争の怖さ」や「極限状態でわかる人間の本質」を少しでも知るためには、こういう本がとても役立ちます。改めて、時空を超える本や文字ってすごいなぁと思います。


目次
心理学者、強制収容所を体験する
第一段階 収容
第二段階 収容所生活
第三段階 収容所から解放されて
『夜と霧』と私―旧版訳者のことば
訳者あとがき



ピックアップ
本書の中からココ!という部分をピックアップします。

まず、愛とその力について。
愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。
(中略)
人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
収容所に入れられ、なにかをして自己実現をする道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。


次に、人生とはどんなものかについて。
並みの人間であるわたしたち、凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう
これは、こう言い替えられるだろう。
「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利を勝ちえたか、ということに。

僕は、「ここじゃなければ、もっと恵まれた環境なら、僕はもっと高いパフォーマンスを発揮できるのに……」なんて甘ったれた考えが頭に浮かぶことがあります。。「さあこれからが……」と考えるのではなく、「今、ここがずっと本番であること」「自分は舞台の上に立ち続けているということ」を意識し続けないといけないですね。。がんばろ。

すでに述べたように、強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」
したがって、被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

目的が現状の解釈を180度変える。良い目的が、良い世界認識を作る。

必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということ(以下略)。
(中略)
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
(中略)
生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここに生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。

生きる目的を外部に問うのではなく、自分に投げかけ、自分が答えること。答えは一人ひとりの具体的な生き方の中にしかない、ということ。

人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

「自分」も「いま」も、たったひとつしかない、ということ。

ひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生き続けるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。



最後のピックアップは、過酷な体験を経て、著者がたどり着いた結論にあたる部分。「人間とは」という究極の問いに答えています。
人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

人間は、自分とその生きる目的を決める存在である、ということ、でしょうか。

…以上です。


ボーっとしてたらついついダラダラと日々を過ごしてしまいますが、一瞬一瞬を極限状態に生きているつもりで、今ここを大切にしながら生きていきたいものです。言葉ではなく行動でもって。。。

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